プラン・インターナショナル・ジャパン誕生秘話
『機上での偶然の出会いが、日本でのプラン創立に』
畠澤 保(公益財団法人プラン・インターナショナル・ジャパン 顧問)
<アメリカへ向かう飛行機の中で>
1981年、フォスター・ペアレント・プラン・インターナショナル(FPPI)の国際本部事務局長のジョージ・ロスは、日本から米国へ向かう飛行機に乗っていました。彼は、FPPIの活動を日本でも展開することができるかどうかの可能性を探る調査を終えて帰国の途についていました。彼が資料に目を通していたところ、隣の席にいた乗客が話しかけてきました。
「失礼ですが、あなたはフォスター・ペアレント・プランの関係者ですか。実は、私はフォスター・ペアレント(現スポンサー)なのです」
その乗客は、マニュファクチャラーズ・ハノーバー・トラスト銀行日本支店の副社長であったロバート・シャープでした。当時、彼は在日米国商工会議所の役員をしていました。彼はアジア人の孤児など数人を養子としており、またFPPIのアメリカ事務局所属のフォスター・ペアレントでもありました。
FPPIは、1968年頃から、支援国の拡大をめざして、カナダ(1968年)、オーストラリア(1970年)、オランダ(1975年)、イギリス(1980年)に事務局を設立し、支援者と交流するフォスター・チャイルド(現チャイルド)数は、1963年の3万人から1981年には20万人に増加していました。ロスは、支援国を欧米中心からアジアにも広げる使命を帯びていたのです。
ロスが今回の訪日の目的を話し、日本ではキリスト教など宗教関係の団体がFPPIと同じような活動をしているが、FPPIのように非宗教的な団体が活動するのはなかなか難しいと慨嘆したところ、シャープは「私が協力しましょう」と申し出ました。
<アジア初の支援国に……立ち上がった日本人たち>
こうして、ロスはシャープの協力をえて、日本での拠点づくりを始めたのです。シャープは、セイコーエプソンの会長であった服部一郎氏、立石電機社長の立石信雄氏、国際大学学長の大来佐武郎氏、国際文化会館常務理事の加藤幹雄氏、衆議院議員の椎名素夫氏などをロスに紹介しました。
1981年8月、ロスは当時私が所属していた外資系の法律事務所に相談に来ました。法律事務所の経営者であったアメリカ人のパートナーは、ロスの話を聞き、日本では成功の見込みはないとアドバイスし、この依頼を引き受けることにあまり乗り気ではありませんでした。
当時、私は3年間の米国の法律事務所への出向から帰国したばかりで、担当する仕事量に余裕がありました。私は、パートナーから、「おまえが担当してもいいのなら、この依頼を引き受けてもよいが、どうか」と打診を受けました。私は、通常の会社の設立とは違う仕事に興味をもち、これを担当することを承諾し、日本における財団法人・社会福祉法人その他の非営利団体の設立の可能性と手続についてロスにアドバイスしました。その結果、正式な法律上の資格(法人)を得る前提となる日本での活動実績を作るために、先ず任意団体を設立して活動を開始することになりました。
<異色の初代事務局長>
1982年、私は、団体設立関連の書類や就業規則類を作成する作業にとりかかり、また、ロスの要請により、事務局長候補者の面接を行いました。候補者の多くは、いわゆる慈善団体の経験者がほとんどで、「ビジネス的な戦略とアプローチをする人」というロスの要望に適う人はほとんどおりませんでした。
そのなかで一人、異色の候補者がいました。彼は、コマーシャルの企画などのマーケティングや多国籍企業の日本子会社の社長などの20年近い経験を有する50歳のビジネスマンでした。
「あなたのような豊富なビジネス経験をもつ人が、どうしてこのような非営利活動に応募したのですか」との私の問いに、彼はこう答えました。
「商売はもう飽きた。何か毛色の違った仕事をしたい。新しい組織を創るのに興味がある」。
私はこの候補者をロスに推薦し、ロスも彼を採用することにしました。彼が、初代事務局長となった山本浩氏でした。山本事務局長は、彼の個人事務所(東京都千代田区)を団体のオフィスとして提供しました。また、団体の名称については、FPPIの名称にとらわれず、日本でのマーケティング上有効なものを選択することを主張しました。
こうして、1983年5月1日、任意団体である「日本フォスター・プラン協会」が設立され、初代の会長には、元アジア開発銀行初代総裁の渡辺武氏が就任しました。また、シャープと、シャープがロスに紹介した服部氏、立石氏、大来氏、椎名氏、加藤氏らが委員に就任しました。
<家族的な空気のなかで>
山本浩事務局長は、旧知の友人であった税理士の平久直氏に協会の経理・税務を依頼し、私は顧問弁護士としてお手伝いすることになりました。こうして、山本事務局長は、組織運営における管理部門の二大要素である税務と法務の専門家を配したのです。
当時、私の事務所は協会のオフィスの真向かいにあったため、しばしば彼に呼ばれて職員や平税理士を交えて昼食をとったり、歓談したりしました。当時は、職員も数人にすぎず、家族的な雰囲気でした。
日本フォスター・プラン協会の設立から1年余り経った1984年6月21日、東京都から公に寄付を募集する許可がおり、協会はフォスター・ペアレントの募集を開始しました。約9カ月後の1985年3月末にはフォスター・チャイルド数が2051人となりました。当時のFPPI全体でのフォスター・チャイルド数は約23万人でした。(現在、チャイルド数は、日本が約3万8000人、プラン・インターナショナル全体で約145万人です)
こうして、今日のプランに至る、基礎ができました。
ジョージ・ロス(左)
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