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ウクライナから日本へ。いま伝えたい平和への願い(前編)
アドボカシーグループ
アンナ・シャルホロドウスカー職員
事務局より
(更新)
アドボカシーグループのアンナです。2022年12月にプラン・インターナショナルに入局しました。
私はウクライナのマリウポリという街で生まれ育ちました。そのマリウポリは、昨年多くの街と同じように、空爆などにより破壊され、私は故郷を去らざるを得なくなりました。
苛酷な状況のなか、私は憧れていた国、日本に避難しました。新たな暮らしや、プラン・インターナショナルの日本事務局で働くことになった経緯、また、ウクライナでの教育やボランティアの経験、今後実現したい私の願望や夢についてもお伝えします。
勉強とボランティア活動に勤しんだウクライナでの日々

マリウポリ州立大学にて(前列右が筆者)

城郭の発掘調査(左端が筆者)
研究会では、歴史について簡単に、かつ双方向に学べるように工夫していました。最も興味深い成果のひとつは、歴史ボードゲームの作成です。また、遠足や人権映画会などの活動も行いました。
これらの活動をきっかけに、NGO「文化・教育プラットフォーム SENSE」を設立。この団体でのボランティア活動を通じ、自分たちは本当に有益なことをしているのだと感じ、刺激を受けました。私たちは固定観念を打ち破り、文化や歴史を保存し広めるためのプロジェクトを実施していました。また、障害者や子どもたちにとって快適で安全な環境づくりにも取り組んでいました。若い人たちが社会で活躍できるよう、動機づけをすることも大切にしていました。

ウクライナ西部バールでの「Build Ukraine Together」プロジェクトに参加
教師の仕事にやりがいを見いだして
補助教員の頃、子どもたちと
私は、大学の最終学年より学校で働き始めました。大学の勉強とボランティア活動、そして学校の仕事を両立させるのは大変でしたが、なんとか工夫をしてやり遂げました。最初は補助教員として働きました。心身に障害を抱え自力で勉強することができない子どもたちをサポートする仕事で、子どもの社会性を高め、通常の授業に適応できるよう手助けをしました。その子のために特別に用意されたプログラムを理解することも必要で、補助教員として働いている間は、「この子たちを助けたい」という強い思いはあっても、コミュニケーションをとることがままならないこともあり、子どもを傷つけないような特別な指導方法を見つけることに苦労しました。
大学を卒業した後、2020年に、同じく教職を志していた夫と結婚。その後、私たち夫婦はマリウポリ市内の中学校で働き始めました。ウクライナでの紛争が激化するまで、私たちはそこで働いていました。この学校は、生徒数が1300人を超える、市内でも大規模な部類に入る学校でした。私は、職員会議の主催者、歴史と法律の教師、そして補助教員のポジションを担いました。子どもたちのために、さまざまな活動やイベントを企画するのは本当に楽しい仕事でした。この仕事は私にとってとても興味深く、創造性に富んだ経験となりました。
マリウポリにて夫と
生徒たちに授業を行う筆者
「教育における人権」がテーマのワークショップ
私は夫とともに、常に専門的なスキルを高めてきました。私たちは定期的に教育研修、セミナー、ワークショップに参加し、これらの活動に子どもたちの参加も促しました。得た経験は、教師の同僚や活動していたNGOに共有し、授業に活かすことができました。学校の運営には教師全員が関わり、教育の革新と変革に取り組んでいました。この仕事を通じて、私は多くの刺激を受け、自身の成長を感じ、ウクライナの教育に素晴らしい未来の可能性を見出していました。
2022年初めには、ウクライナの大手メディアで10カ月間のインターンシップをする助成金を得ることができました。学校での仕事と並行して、マリウポリのニュースサイト「0629」で働き始めたのです。当時記事にしたいテーマやアイデアはたくさんありました。しかし、ウクライナ紛争の激化により、すべての計画を変更せざるを得なくなりました。しかし、マリウポリから避難した後も、形態は異なるもののインターンを続けました。
ずっと暮らしていたかった街
ウクライナ東部の紛争は2014年に始まりました。その年、ロシアは他の都市とともに重機でマリウポリを制圧しようとしました。しかし、ウクライナ軍はすぐに街の上空を制圧することに成功しました。街の外ではほぼ毎日、砲撃の音が聞こえていました。そして2015年1月24日、マリウポリで大きな悲劇が起こりました。ロシア軍が市内の住宅地を砲撃し、100人以上の死傷者を出したのです。
時間が経つにつれ、砲撃の音はだんだん遠のき、中心部ではまったく聞こえなくなりました。そして、街は徐々に日常を取り戻し始めました。2014年当時、ロシアが一時的に支配していた地域から、多くの避難民がマリウポリにやってきました。
勤務していた学校の同僚たちと
私たちはそうした人々とともに、自分たちが住みたい街をつくってきたのです。この8年間、マリウポリは発展を続け、新しい施設や企業、公園、さまざまな娯楽施設がオープンしました。マリウポリは見違えるような近代的な観光都市となり、多様な分野でランキングの上位に入るようになりました。大規模なフェスティバルやコンサート、イベントが開催され、他の地域の人たちを魅了していました。
私は大好きなマリウポリがこのように素敵な街に変化したことを嬉しく思いました。一方で、凍結された紛争のなか街が再建されることには違和感も覚えました。紛争はまだ続いていて、いつ新たな破壊行為が勃発するかわからない状態でした。街を離れる時に必ず通る検問所では、塹壕や兵士、軍装を目にしました。その当たり前になった風景を、マリウポリの住民たちは怖がることがなくなっていきました。しかし、ニュースではウクライナの国境にロシアの軍備が集積していることが報道され、人々は警戒心を抱いていました。それでも、ウクライナ領内で本格的な紛争が間もなく始まるとは、このときは誰も思っていなかったのです。
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