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ウクライナから日本へ。いま伝えたい平和への願い(後編)

アドボカシーグループ
アンナ・シャルホロドウスカー職員

事務局より

更新)

アドボカシーグループのアンナです。2022年12月にプラン・インターナショナルに入局しました。
私はウクライナのマリウポリという街で生まれ育ちました。そのマリウポリは、昨年多くの街と同じように、空爆などにより破壊され、私は故郷を去らざるを得なくなりました。苛酷な状況のなか、私は憧れていた国、日本に避難しました。
ブログの後編では、私の人生を変えてしまった紛争、日本での新たな暮らしやプランとの出会い、今後実現したい私の願望や夢についてお伝えします。

紛争が私の人生のすべてを変えた

2022年2月24日の朝、私の人生は一変しました。ウクライナでの紛争が激化するという報道が何度も繰り返されてはいたものの、私たちはまだ、それがどれほどの悲劇を生み出すことになるかを想像することができませんでした。

8年間も凍結された紛争のなかで暮らしてきた夫と私、私の姉は、マリウポリの方が安全かもしれないとの思いから、ここに留まることにしたのです。しかし、日に日に街の状況は悪化していきました。大きな爆発音が、次第に近くで聞こえるようになりました。店の棚はどんどん空っぽになり、商品の補充もありませんでした。閉店した店は瞬く間に強奪に遭い、とうとう街の中には店が1件だけになってしまいました。1日3時間しか営業しないこの店には、爆撃のなか朝早くから食料品を求める人々の列が延々と続いていました。しかし、3月中旬になると、この店も略奪の被害に遭い、紛争が激化しつつある人口50万人の街には、店が1軒もない状態になってしまったのです。
写真:店には空の陳列棚だけが残った

店には空の陳列棚だけが残った

電気、暖房は次第に断たれ、我が家が砲撃で破壊された日に、ガスの供給も断たれました。携帯電話も遮断され、街の外との連絡はまったく取れない状態になりました。市街地で海を隔てた場所にある高層ビルからの電波を数回だけ探知したときに、別の場所に暮らすもう一人の姉に生存を知らせるメッセージを送ることができました。

3月6日、私たちが住むアパートを砲弾が直撃した時、夫と私と姉は奇跡的に廊下に飛び出すことができました。しかし、強烈な爆風でアパートのなかはすべて崩壊してしまいました。飼っていた猫を探そうとしていたとき、火事が発生しました。近所の人が残りわずかな水を使って消火に当たってくれました。しかし、その直後から次の砲撃が始まりました。何とか地下室に隠れ、出てきたときにはもう家が燃えていて、消火することは不可能でした。その後、向かいの家の地下室に避難しそこで寝泊まりしました。翌日向かった友人の家では、大家族が私たちを温かく受け入れ、私たちが街を出るまで支えてくれました。

写真:砲撃で破壊された私の部屋

砲撃で破壊された私の部屋

写真:炎に包まれるアパート

炎に包まれるアパート

街は、もはや元の姿を想像することができない状態になっていました。寒くて、灰色で、爆撃された建物や潰れた店があり、あたりは混乱していました。不規則な爆発が続くなか、人々は家の外で焚き火をし、調理をしていました。その後、飛行機が絶え間なくやって来て、破壊力のある爆弾を落とすようになりました。紛争が激化して以降、もう、サイレンが鳴ることはありませんでした。当時のマリウポリには何も残っておらず、人々は、見捨てられ、絶望のどん底に置かれていました。
写真:黒煙が立ち上る街

黒煙が立ち上る街

私たち夫婦が働いていた学校も爆撃で大きな被害を受けました。生徒や保護者、先生が待ち望んでいた全面的な改修がまもなく終わろうとしていた矢先のことでした。紛争は建物だけでなく、子どもたちや先生たちの温かく楽しい思い出をも破壊してしまったのです。

写真:爆撃で破壊された校舎と教室

写真:爆撃で破壊された校舎と教室

爆撃で破壊された校舎と教室

マリウポリを離れることができたのは、紛争激化の直後と、3月14日以降、街への道が通行可能になった時だけでした。その後、マリウポリは再び戦火に巻き込まれ、街を離れるのは非常に困難な状況になりました。
写真:マリウポリ中心部の様子

マリウポリ中心部の様子

紛争が激化して3週間後の3月16日に、なんとか街を出ることができました。それまでは、この生活が永遠に続くかのように感じられ、まるで別の世界にいるようでした。当時は街を離れることは不可能に思えていて、私たちは、毎日新たに誕生日を迎える気持ちで必死に過ごしていました。このままでは、私たちを支えてくれている家族の水と食料が足りなくなるという状況に直面し、私たちは出ていくことを選択しました。彼らは街に残るということでしたが、私たちは大きなリスクを承知で一刻も早くこの街を離れたいと思っていました。一瞬一瞬、これが最後かもしれないと感じ、次に何が起こるか分からない状況だったからです。一家と別れたあと、夜中に飛行機からの砲弾が家の近くに落ちたときには、別の家族が私たちを助けてくれました。

写真:避難の途中

避難の途中

私たちの旅はとても長く、困難と危険を伴うものでした。多くの検問所を通過し、何度も長蛇の列に並びました。何台もの車が連なるなか、砲撃の音を聞きながら旅をしました。ロシアが支配する別の都市を経由しなければならず、ウクライナの領土に着くまでに3日ほどかかりました。故郷を離れ、安全な場所にたどり着くことができた時の嬉しさはひとしおでした。しかし、街で起こっていることや、破壊されたマリウポリを最後に見たときの悲しみと心の痛みは、私の記憶に永遠に残ることでしょう。

日本での新たな生活

マリウポリを離れ、5月に日本に到着するまでの2カ月以上、私たち夫婦はさまざまな場所で過ごしました。最初は難民キャンプで、次にポーランドで。ポーランドでは、ウクライナの青少年交流プロジェクトを一緒に考えていた同僚の家に一時的に滞在させてもらいました。このプロジェクトは、紛争が激化しているとはいえ、まだチャンスがあるうちに最終的な形にしたプロジェクトでしたが、予定通りに実施することはできませんでした。

同時に、国際的なプロジェクトに参加したり、旅をしたりしながら、避難所や支援が受けられる国を選ぶようにしました。出発したのがかなり遅かったので、すでにほとんどの国がウクライナからの難民で過密状態になっていました。日本がウクライナからの難民を受け入れているという情報もありましたが、ここまで来るのは非現実的な気がしていました。しかし、ある日、ポーランドの日本大使館の前を通りかかり、なかに入って聞いてみることに。そして1週間後、私たちは日本に到着したのです。

写真:日本に避難しているウクライナの人々と

日本に避難しているウクライナの人々と

私たちがこの国を選んだのは、この国の文化や歴史、そして精神性や生活様式にとても興味があったからです。映画、食べ物、そして私たちにとって非常に難しい言語に魅了されたのです。日本は私たちをとても温かく迎えてくれました。事務手続き、宿泊施設、住居、福利厚生など、すべてにおいて私たちを助けてくれました。人々は私たちに誠実に接し、助けようとしてくれました。徐々に、私たちには友人ができ、受け入れてくれる場所を見つけることができました。「ウクライナ『心のケア』交流センターひまわり」が主催するウクライナ人の会合にもよく参加しています。そして今は、ウクライナとウクライナ人を経済的に支援する別のプロジェクトにも参加しています。このプロジェクトは、ウクライナ人と一緒に平和をテーマにしたビデオを撮影するものです。

プランで働くことで、一つの夢が叶った

日本に来たとき、好きな仕事に就けるかどうか自信がありませんでした。ただ、自分の仕事が少しでもウクライナの役に立てればと思っていました。徐々に日本に慣れ、NPO法人WELgeeが主催する難民の就労を支援するイベントに参加しました。その後も連絡を取り合い、ある会合で自分の希望や思いを伝えたところ、その翌日、彼らから「日本のプラン・インターナショナルが、チームに参加してくれるウクライナ人を探している」というメッセージを受け取り、このポジションに挑戦してみないかと提案されました。

私は長い間、国際的な支援団体で働くことを夢見ていました。そのため、ほとんど無理とは思いつつも、挑戦することにしました。WELgeeのメンバーは、履歴書の書き方から、面接の練習、そして現在に至るまで、あらゆる場面で私をサポートしてくれました。こうして、不可能と思われた私の夢が一つ叶ったのです。

写真:プランの事務局にて

プランの事務局にて

現在、私は日本のプラン・インターナショナルの、温かくフレンドリーなチーム、アドボカシーグループで仕事をしています。今は主に、ウクライナの状況や、支援を必要としているウクライナ人に関する情報収集に従事しています。ウクライナの歴史やロシアとの関係、ウクライナの教育制度や海外子女教育の課題、難民適応の問題やウクライナの女の子の状況など、プランの職員向けの発表資料を準備しているところです。もちろん、日本に避難してきたウクライナ人の生活や苦労についても伝えたいと思っています。人々の生の声を知るために、私はウクライナ人にインタビューを行い、その話を発信していくつもりです。また、これまでの経験をもとに、寛容と民主主義をテーマにしたワークショップを開催する予定です。

仕事と並行して、現在は語学学校で日本語を勉強しています。プランの同僚が日本語の勉強を手伝ってくれることもあります。母国語とはまったく違う言語を学ぶことは、とても難しいですが、少しずつ日本語を話せるように頑張っていきたいと思っています。

今、私はウクライナとウクライナ人を応援し、あらゆる方法でウクライナの現状を世界に伝えたいと心から思っています。たとえ小さな支援であっても、人道面や経済面、教育などさまざまな側面で、あらゆる取り組みや提案に参加したいと思っています。さまざまな国に避難している子どもたちが異なる社会に適応するのを手助けしたいです。

将来の夢と希望

私は、人生の最も困難な時期に私を守り、あらゆる面でサポートしてくれた日本をとても尊敬しています。もちろん、ウクライナ、特に紛争で離れることを余儀なくされた故郷がとても恋しいです。以前の生活にはもう戻れないと感じています。しかし、日本にいる間にも、ウクライナの人々や母国のためのサポートをすることができると信じています。

この紛争では、すでに多くの人々が亡くなり、大勢の子どもたちが二度と元の生活に戻れない状況に陥ってしまいました。負傷した子ども、孤児になってしまった子どもたちも大勢います。恐怖に直面した子どもたちが、一刻も早く自由で独立したウクライナで平和に暮らせるようになることを願っています。明るい未来への希望であるはずの子どもたちが、今は支援を必要としています。

私は、一人ひとりの夢は必ず叶うと信じています。そして、私たちがともに、ウクライナの平和のために夢を抱き全力で努力すれば、必ず実現するはずです。ウクライナは今、世界中の多くの国々、人々に支えられているのですから。

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